教えのやさしい解説

大白法 553号
 
立正安国(りっしょうあんこく)
 日蓮大聖人は文応元(一二六〇)年七月十六日、時の最高権力者であった北条時頼(ときより)に対して『立正安国論』を提出し、当時頻繁(ひんぱん)に起きていた災難の根本原因が謗法(ほうぼう)にあることを明らかにし、正法に帰依することによって、平和な国土の実現が可能であることを御教示されました。
 この「立正安国」とは、『立正安国論』一編の内容と目的とを端的(たんてき)に表現された語で、「立正」とは、正しい仏法を立てることをいい、「安国」とは、国を安んずることをいいます。

 「立正」とは三大秘法
 総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は『安国諭愚記』において『立正安国論」の破折の対象が、一往、付文(ふもん)の辺は法然の浄土宗にあるが、再往、元意(がんい)の辺は諸宗に通ずることを明かされています。
 すなわち「立正」には必然的に「破邪」の意味が含まれていることを、
 「当(まさ)に知るべし、立正とは破邪に対するの言なり。正直捨方便(しょうじきしゃほうべん)は邪を破するなり。但説無上道(たんせつむじょうどう)は正を立つるなり」(日寛上人文段集 七n)
と仰せられ、正法を立てるとき(立正)には、必ず邪教に対する破折(破邪)が伴(ともな)うことを御教示されています。
 このような邪義・謗法を破して立てられる正法とは、『立正安国論』では、浄土宗に対する権実相対(ごんじつそうたい)によって、法華経を指して正法とされています。しかし再往、後の「開目抄』『観心本尊抄』『三大秘法抄』等に示される大聖人の御本意から立ち返って拝するならば、法華経の中にもさらに本迹相対(ほんじゃくそうたい)・種脱相対(しゅだつそうたい)して、文底下種(もんていげしゅ)の本門・三大秘法こそが、末法に立てられるべき唯一の正法に当たるのです。
 したがって本迹相対・種脱相対を知らず、天台の迹門や文上脱益の法華経を正法と立てることは、大聖人の御本意の「立正」とはなりません。
 日寛上人は、
 「立正の両字は三箇(さんか)の秘法を含むなり」(同 八n)
と仰せられ、「立正」の二字に三大秘法を含むことを、字義的な面から次のように釈されています。
 本門の本尊について、
 「本門の本尊に約せば、正(しょう)とは妙なり、妙とは正なり。故に什師(じゅうし)は妙法華経と名づけ、法護(ほうご)は正法華経と名づくるなり。況(いわん)や天台は三千を以て妙境(みょうきょう)と名づけ、妙楽は妙境を以てまた正境(しょうきょう)と名づけんをや。故に正は即ち妙なり。妙とは妙法蓮華経なり。妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり」(同)
とあり、次に本門の題目について、
 「本門の題目に約せば、謂(いわ)く、題目に信行の二意を具す。行の始めはこれ信心なり、信心の終りはこれ行なり。既に正境に縁する故に信心即ち正なり。信心正なる故にその行即ち正なり。故に題目の修行を名づけて正と為すなり」(同 九n))
とあり、本門の戒壇については、
 「本門の戒壇に約せば、凡(およ)そ正とは一の止(とど)まる所なり。故に一止に●从うなり。一は謂く、本門の本尊なり。これ則ち閻浮(えんぶ)第一の本尊なるが故なり(乃至)またこれ一大事の秘法なるが故なり。(乃至)故 に本尊を以て一と名づくる者なり。止はこれ止従の義なり。既にこれ本尊止住の処なり。豈(あに)本門の戒壇に非ずや。立とは戒壇を立つるなり」(同)
と示されています。すなわち大聖人が『立正安国論』に、
 「汝(なんじ)早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり」(御書 二五〇n)
と仰せの「実乗の一善」とは、三大秘法総在の「本門の本尊」を指していることは明白であり、「立正」の本意もここにあるのです。

 「安国」は僧俗の使命
 次に「安国」とは、立正によって顕現する果報、すなわち三大秘法の正法を広宣流布することにより、国土が安穏になることをいいます。その「国」とは、日本一国のみを指すのではなく、日寛上人が、
 「文(もん)は唯日本及び現世に在り、意は閻浮及び未来に通ずべし」 (日寛上人文段集 八n)
と示されているように、『立正安国論』は一往(いちおう)は鎌倉時代の日本の国を諌(いさ)めるために著されたものですが、再往(さいおう)、そこに示された内容は普遍的に全世界及び未来に通ずることをいわれたものなのです。
 また、御法主日顕上人猊下は「国」の字について、
 「大聖人の広布に関する御本意は、立正安国論の御真蹟中『くに』の文字において、口がまえの中に玉、または或字を書き給うは、わずかに十五字であるに対し、口がまえの中に民の字を書き給うは実に五十数字にわたることにおいて、民衆中心、民衆による仏法弘通の御意が拝されるのであります」(大白法 二九三号)
と御教示されています。すなわち『立正安国論』は国主諌暁の書であり、その意義や方法は時代と共に変化するとはいえ、正法を立てて国家社会乃至世界の安寧(あんねい)とする立正安国の実践に進むべきことは、民衆を中心とする我々門下に託(たく)された一日も忘れてはならないことと拝することが大切なのです。

 破邪顕正して「立正安国」実現へ
 「立正」が「安国」の根本条件であるとともに、私たちは正しい信心によってこそ、人間の生命が浄化され、それがひいては社会の平和・繁栄がもたらされる要因であることを知らなければなりません。
 大聖人の御生涯は、「『立正安国論』に始まり『立正安国論』に終わる」と言われます。それは邪義を峻別(しゅんべつ)し、正義を顕正して修行していくところに、はじめて真の成仏の道があることを、大聖人の仏法の出発点とし、終着点とするからです。
 大聖人は『立正安国論』に、
 「唯(ただ)我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(御書二五〇n)
と示されています。私たちは平成十四年を目指して、仏恩報謝のために一人でも多くの人を折伏し、三十万総登山の大成功を期して、真の「立正安国」を実現していきましょう。